江戸時代以前の先祖について考える
こんばんは。
最近先祖探しから離れていましたが、先日まとまった時間がとれたため、区切りの良いところまで進めようと思い、家系図を整理しました。今回は、江戸初期の先祖と旧墓地内にある室町期の板碑についてです。
今私が追跡しているのは、父方の先祖で、その先祖は江戸時代に羽黒派修験道の法印(山伏)をしていました。
山伏は、江戸時代までは諸国を渡り歩くなどしていたようですが、江戸時代に入ると各村々に定着し、村の神社を管理したり、お寺とともに村の祭祀を取り仕切っていました。こうした山伏は、妻子を持つ、妻帯修験であり、里修験あるいは里山伏と言われます。当家の先祖もこの里修験でした。
『宮城縣史 26』には、「修験院書出」という文書が収録されており、そこに先祖が提出した文書が収録されています。
「修験院書出」というのは、各村にある神社や寺院、修験院の情報を書いた文書です。
そこには修験院の来歴が以下のように記されていました。
當院者良鏡院宝光鏡永開山ニ御座候処右年月相知不申候 但慶安四年十一月十一日死去仕候処右年号□當安永五年迄百五拾九年ニ罷成候事
これによると、「開山(修験院の初代)は良鏡院宝光鏡永という人物で、開山年月は不詳。しかし、鏡永が死去したのは慶安4(1651)年で、現在(安永5(1776)年)まで、159年になる。」ということです。
ただ、安永5年の159年前というと、元和3(1617)年になってしまい、鏡永の没年と一致しません。これはどういう意味なのか…、誤読か誤記か、解読されてはいますが、一度原本を見てみたいものです。
このように、当家では江戸初期の先祖は名前と没年が文書に残るのみで、墓石もありません(鏡永のものと推定される無記名の墓石はあります、下の記事で推測しています)。
では、鏡永以前の先祖はというと、全く不明で、わずかに口伝として「奥州藤原氏滅亡時に、藤原氏の一族が落ち延びてきたその末裔」と伝わる程度です。藤原を名乗っていたことは、古い墓石に「藤原」と刻まれていることから確認できます。
他に、先祖とどういう関係にあるのかはわかりませんが、旧墓地内に室町期のものと推定される板碑があり、「道林禅門」と彫られているそうです。
ちなみに、付近の板碑を郷土史で確認したところ、「道○禅門」(〇にはいろいろな文字が入る)という戒名が彫られたものが多数確認できました。
また、口伝では他に、「先祖は最初は僧侶だったが、のちに山伏になった」とも伝わっており、それは旧墓地内にこの板碑があったからなのだろうと思います。
現状、史料が全くなく、根拠が口伝のみという状態。これ以上遡るのは現時点では不可能に思いますので、ここは口伝を信じて(子孫が信じてあげなくて誰が信じるのか)、江戸時代以前の先祖を想像することにします。
本家のある地域は、北上川流域にあり、安倍氏、奥州藤原氏にまつわる伝説が残るなど、古くから拓けていた土地で、周囲は山や湿地帯が多かったようです。
こうした地理的な状況と口伝から、
奥州藤原氏滅亡に伴い、その一族?が当地に落ち延び、出家して僧侶となった。その後、時代が下ると修験道の山伏となり、修験院を開山した。
というざっくりした推測をしてみました。おそらくこれ以上は困難…。
今後できるアプローチとしては、当地方の室町期の寺院について調べてみたり、近隣の村にある修験院を調べてみることくらいでしょうか。
以上、ざっくりと江戸時代以前の先祖に思いを馳せてみました。
私が現在名乗っている苗字の先祖は大方調べつくした感じがあるので、今後は①父方祖母、②父方曾祖母、③父方曾曾祖母の家系にアプローチしてみようと思います(もちろん現在追跡している先祖についても継続します)。
今回はここまでになります。最後まで読んでいただきありがとうございました。
法印神楽を始めた先祖のこと【後編】
前回の投稿からだいぶ空いてしまいました。
【前編】では、法印神楽の概要と江戸期の修験院について触れました。
今回の【後編】では、先祖が法印神楽を始めた理由について考察します
※史料が残っていないため、推測の域を出ませんがお許しください
旧墓地調査報告書の記載から
先祖が法印神楽を始めたのは宝暦年間(1751~1763)のことであると前編で記しました。
それを踏まえながら、改めて「旧墓地調査報告書」を見直したところ、宝暦年間に亡くなった先祖が複数いることを発見。今までは法印戒名に注意を払っていて見落としていました。改めて数を数えたところ、5人いました。以下早い順に戒名を並べてみます。()内は没年です。
未陽童女(宝暦元年正月2日)
晩光□□霊位(宝暦4年、俗名八之允)
権大僧都秀栄金剛(宝暦8年9月14日)
善男童子(宝暦9年7月22日)
秀長法印金剛位(宝暦10年10月20日)
ちなみに、「旧墓地調査報告書」は、本家の墓地を移転する際に、全ての墓石は移せないが、せめて記録だけはとっておこうと地元の郷土史家の方に依頼して調査してもらった際の報告書です。私が生まれる8年前のことでした。立ち会えなかったのは悔やまれます(どうしようもないことですが笑)
話を戻します。宝暦元年から9年の間に5人が亡くなっています。死因として、「宝暦の飢饉」が関係あるのではないかと考えました。
仙台藩と宝暦の飢饉
仙台藩領では、宝暦・天明・天保の大飢饉を3大飢饉と称するほど被害が多く、特に天明の飢饉では、20万人以上の死者を出したと推定されています。(『仙台藩と飢饉』)
宝暦の飢饉については、宝暦4(1754)年から宝暦7(1757)年にかけて、大きな被害をもたらしたとされ、岩手県と宮城県で、5〜6万人の死者を出したといいます。
仙台城下以外の地方における被害がどれくらいだったかはまだ調べられていないので、今後の課題としたいと思います。
法印神楽を始めた先祖
当家において、法印神楽を演じ始めたのは、宝暦年間だと伝わっています。
この時期の当主は、秀栄(宝暦8年没)あるいは秀長(宝暦10年没)です。両人は宝暦年間に死亡していますが、宝暦の飢饉が猛威をふるったのは宝暦4〜7年なので、両人は飢饉後に亡くなったことになります。
そのため、法印神楽を始めた先祖は、宝暦の飢饉の早期終結を願って、あるいは宝暦の飢饉によって亡くなった人々の鎮魂のために演じ始めたのではないかと考えました。
史料が残されていないので、推測の域を出ないのが残念です。
余談になりますが、天明の飢饉の際には、当家で死者は出ていませんが、宝暦の飢饉と天保の飢饉の際には、飢饉関連で亡くなったのではと思われる先祖がちらほらいます。
祖父からも、「飢饉で家系が絶えかけたことがあったが、修行に出ていた遠い血筋の人が跡を継いで今日まで続いている」と聞いたことがあります。
実際、宝暦に法印2名(秀栄、秀長)が亡くなった後、次にでてくる秀長法印という人物が、古文書に「龍性院延寿秀長」と名があり、他の修験院(延寿院)の名を冠しているため、延寿院からの養子ではないかと推測できます。
延寿院と龍性院は縁戚関係を結び代々交流があったと言われています。
他にも絶えかけている時期がありますが、それはまた別の機会に触れます。
今回はここまでです。
最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました。
法印神楽を始めた先祖のこと【前編】
久しぶりの更新になります。
郷土史を読んでいて、当家の先祖が「法印神楽」を演じた旨の記載がありました。
その本によると、宝暦年間から演じてきたと書かれてあり、早速調べてみることに。
今回は前編・後編の2本立てです。
法印神楽とは
法印神楽の「法印」とは、修験者の別名のことで、今でも私の地元では修験者のことを「法印さん」もしくは「ホウエンさん」などと呼んでいます。
法印神楽は、宮城県の石巻(いしのまき)、牡鹿(おしか)、桃生(ものう)、登米(とめ)、本吉(もとよし)、気仙沼(けせんぬま)などの三陸沿岸地域(北上川流域の地域を含む)に伝わる郷土芸能で、修験者(山伏)が伝えた神楽のことです。
著名な法印神楽としては、石巻市雄勝(おがつ)町の「雄勝法印神楽」が国重要無形民俗文化財に指定されています。
下の地図の〇で囲まれたあたりが法印神楽の伝わる地域です(おおまかな線引きなので多少のずれはご了承ください)。
演目は、「道祖(どうそ)」、「日本武(やまとたける)」など記紀神話(古事記・日本書紀)を題材に構成されており、二間四方の舞台の天井に大乗という天蓋(てんがい)の一種を吊るし、奥に幕を張った舞台で演じます。お囃子は多くの場合太鼓と笛のみで演奏されます。
神楽は、大別して巫女神楽、出雲流神楽、伊勢流神楽、獅子神楽(山伏神楽、番神楽、大神神楽)に分類されるそうで、法印神楽は出雲流神楽に分類できると言われます。出雲流神楽は、採物(榊・幣・弓・剣など手に持つ道具)の舞と演劇的なものを組み合わせた能のような神楽です。
宗教性の濃い修験道の思想が反映された祈祷神楽であり、神事神楽でもあったため、明治維新以前は法印以外は舞うことができなかったそうです。
法印神楽は江戸時代、各村にある修験院で演じられてきましたが、現在に伝わるものの中では、石巻市桃生町の樫崎法印神楽が所作に修験の名残をよく残していると言われています。
法印神楽の起源と修験院
法印神楽の起源については、不明な点が多く、史料もあまり残っていません。
私の地元である宮城県の石巻市では、元和2(1616)年に中津山村の修験、本山派良寿院の滝本重慶という法印が、皿貝村(石巻市河北町)の修験、本山派成就院の久峯重光とともに聖護院(本山派修験の本山)門主宮様御入峯の折に演じた能がはじまりと言われています。
また、石巻市桃生町では、樫崎村の羽黒派修験院龍性院(現・鹿島神社)に宝暦年間(1751~1763)から演じられてきたと伝えられています。
てっきり法印神楽は羽黒派修験独自のものなのかと思っていましたが、どうやら本山派修験院でも演じられていたようです(本山派の方が100年以上早い)。
さて、法印神楽が伝わる北上川流域に、修験院が江戸時代にどれくらいあったかというと、「安永風土記御用書出」や「修験院書出」によると、安永年間(1772~1780)の北上川流域の村々の修験院は、44ヵ院にのぼります。
また、延享3(1746)年の「羽黒山御末本流分限御改帳」からは、各村々の修験院が神楽座を組んでいたことがわかります。
主な神楽座として、羽黒派修験の樫崎村龍性院(石巻市桃生町)、永井村大善院(石巻市桃生町)をはじめとする「桃生十箇院」、本山派修験の中津山村良寿院(石巻市桃生町)、皿貝村成就院(石巻市河北町)などの「大和三輪流」が挙げられます。
なお、国重要無形民俗文化財に指定されている雄勝法印神楽は「桃生十箇院」の一つ、市明院(現・葉山神社)が伝えたもので、市明院は延徳2(1490)年からの歴史をもつ旧家です。市明院には、今現在、法印神楽の最も古い文書である元文4(1739)年の「御神楽之大支」が所蔵されています。
以上のことから、遅くとも江戸時代中期には各地で演じられていたと考えられます。
ここで、雄勝法印神楽を伝える葉山神社(市明院)のホームページに掲載されている法印神楽の記事を一部引用します。
法印神楽とは、元来修験者の行なうもので桃生郡内の「羽黒派十法印」と呼ばれる家に一子相伝の口伝にのみ伝えられて来たと記されている。当神社所蔵の「羽黒派未派修験帳」によると旧桃生郡内の十法印の地区に互いに山河を越え往来し、その結びつきは明治中期まで固かったいう。
このように往古の神楽舞は、十法印がお互いに協力しあって舞ってきたが、神楽を奉納する神社は、余ほど富める氏子を有しているか、或いは社殿の新築時などの特殊事情を背景にしており、現在のように神社の例祭日に毎年奉納するというほど地区の経済は裕福ではなかった。
したがって神楽を奉納するとなると態夫(わざふ)といって人夫を使って峠を越え、川を渡り苦労を重ね、桃生十法印を集めたのである。
(石峰山石神社・葉山神社ホームページより)
法印神楽が現代に伝えられるまで守り抜いてきた、先人たちの苦労が偲ばれます。
法印神楽はYouTubeにもアップされていますので、興味のある方はご覧ください。
法印神楽の概要を述べてきましたが、前編はこれで以上となります。
後編で、私が先祖調査をしてきた中で、法印神楽を始めたと思しき先祖とそのきっかけについて考えたことを書きたいと思います。
次回に続きます。
墓石と戒名
最近、身のまわりが慌ただしくて更新ができていませんでした。
さて、今日は彼岸入りということで、墓石と墓石に刻まれる戒名について書いてみようと思います。
戒名とは
戒名(法名)は、もともとは受戒(出家あるいは帰依入信)した者に与えられたものでした。
ところが、在家の男女が死後に僧侶から「法名」を与えられるようになり、これも「戒名」と呼ばれるようになりました。
この種の戒名が、日本では中世末期ごろからみられ、近世の檀家制度のもとで一般的となり、戒名と言えば死後に授与されるものという認識が現代まで続いています。
墓石に刻まれるもの
墓石には、①種字(梵字)、②戒名、③没年、建立日、④置字が刻まれます。
戒名は2文字ずつが基本構成となります。
戒名の構成としては、△△院◇◇○○居士、◇◇○○信士、△△禅定門などが挙げられます(実際の戒名については後程ご紹介します)。
「△△院」の部分は「院号」、「◇◇」の部分は「道号」、「○○」の部分を「戒名」、「居士」の部分を「位号」と言います。
「戒名」と一口に言っても、各部分に呼び名がしっかりあります。
また、戒名(厳密には位号)には「格」があり、以下のものが多いです。
男性:大居士、居士、信士(清浄士)、禅定門、禅門、善男(清信士)、釋○○
女性:清大姉、大姉、信女(清浄女)、禅定尼、禅女、善女(清信女)、釋尼○○
他にも、院号として、院殿、院、庵、軒などがつくことがあります。
現代ではお金で院号をつけることができますが、江戸時代は信仰の深さや菩提寺への貢献度、社会的貢献によって授けられるものでした。
「院号&大○○」なんて戒名があったらその人は相当に社会的身分の高い方だったと思われます。
宗派別の戒名
戒名の道号を読むことにより、その人の宗派もわかります。
浄土宗…「譽(誉)」 西山浄土宗は「空」「道」
浄土真宗…釋○○、釋尼○○
時宗…男性「阿」 女性「弐」
臨済宗…特別な傾向はないが「庵」「斎」が使われることが多い
曹洞宗…熟字でまとめられる
日蓮宗…男性「法」 女性「妙」、「日」の字が入る
などです。
また、修験者(山伏)の場合だと、「権大僧都」や「法印」、「法眼」などが入ります。
大学時代に山形県鶴岡市にある羽黒山の山中にある墓石の調査をしたことがあります。羽黒山は出羽三山の一つで、羽黒派修験道と非常に深いかかわりがあり、山中には山伏の墓石が沢山ありました。
その時の感覚から言うと、羽黒派山伏の墓石にはかなりの割合で「権大僧都」あるいは「法印」つくものが多かったように思います。
「法眼」あるいは「法喬」というのも山伏の戒名ですが、あまり見かけませんでした。
羽黒派修験道については、また別の機会に 書きたいと思います。
実例で見る戒名
では、最後に実際の戒名をいくつかご紹介します。
①最長の戒名と最短の戒名
平清盛…浄海
浅野内匠頭長矩…冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士
平清盛は言わずと知れた武士として初の太政大臣となり、栄華を極めた平家の棟梁です。
浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)は、忠臣蔵に登場する、吉良上野介を松之廊下で斬りつけた赤穂藩主です。
同じ戒名ですが長さが全然違います。
初期の戒名はたった2文字という短いものでした。それが時代が経つにつれ、長くて豪華なものほど良いというようになっていきます。
②江戸時代の戒名
自性院秋天妙休法女(文政4(1821)9月22日没)
この人物の戒名を分解すると、院号が「自性院」、道号が「秋天」、戒名が「妙休」、位号が「法女」となります。
道号「秋天」に着目すると、この人物は秋に亡くなったと推定できます。
戒名にはその人物の生前の名の一部や亡くなった時期が入ることが多いのです。
この人物の生前の名ははっきりしませんが、亡くなったのは9月で、やはり秋に亡くなっていました。
最後に変わった戒名をご紹介します。
好酒呑禅定門
鯨飲酔眠信士
池岸頓入童子
これは数ある戒名の中でもかなりひどいつけかたをされています。
戒名はお坊さんから授けられるものなので、如何ともしがたいですが、ちょっとストレートすぎやしないかと思います…。
いずれも江戸時代の人ですが、上から2つは読んで字のごとく、酒好きだったとわかります。おそらくかなりののんべえです。
3つ目は、池に落ちて亡くなった男の子の戒名です。死因がストレートに反映されてしまっています。
このように、戒名からは生前の人柄や死因が入れられることもあるのです。
他にも、生前の職業にちなんだ文字が入ることもあります。
今回ご紹介したのは基礎的な戒名の知識です。
ただ、先祖探しをする上で、墓石はかなり重要な役割を果たしてくれるものと思います。
彼岸ということで、お墓参りに行った際は、ぜひ戒名に注意して見てみてください。戒名から会ったことのないご先祖様の人柄などを想像し、思いを馳せてみるのも良いかもしれません。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
系図と口伝が結びついた瞬間
旧墓地調査報告書や郷土史から判明した先祖を整理し、系図に落とし込む作業をしていました。
仕事が忙しくなったりして、時間が取れず、予定より時間がかかってしまいましたが、昨日ようやく終わりしました。
その作業中の出来事で、先祖探しの醍醐味(と私が思っている)を味わった瞬間がありました。
系図に先祖を落とし込んでいく中で、ある時期に集中して先祖が亡くなっています。
「もしや」と思い『宮城縣史』で調べてみると、集中して亡くなっている時期と飢饉が起こった時期が見事に合致したのです。
仙台藩では、宝暦・天明・天保年間に三大飢饉と称される大飢饉が起こっています。
宝暦の飢饉…宝暦4(1754)年から宝暦7(1757)年にかけて東北地方を襲った大飢饉。現在の岩手・宮城両県にわたる範囲で約5万ないし6万人の餓死犠牲者が出たとされる。
天明の飢饉…天明2(1782)年から天明8(1788)年にかけて発生した飢饉。江戸四大飢饉の一つで、近世日本最大の飢饉とされる。
天保の飢饉…天保4(1833)年に始まり、天保6(1835)年から同8(1837)年にかけて最大規模化した飢饉。天保10(1839)年まで続いた。
宝暦の飢饉が始まった宝暦4年に没した先祖が1人、飢饉の期間には含まれませんが、宝暦年間には大人と子どもあわせて4人が亡くなっていました。飢饉で亡くなった人も含め、計5人が宝暦年中に亡くなっています。
また、上記3つの飢饉には含まれませんが、安永3(1774)年、安永7(1778)年にも、冷涼冷雨・気候不順による被害がでており(『宮城縣史』より)、その期間にも大人と子ども4人が亡くなっていました。
この宝暦及び安永年間で、およそ10人が亡くなっています。系図に落とし込んだところ、一人を除いてことごとくこの時期に亡くなっていました…。
天明の飢饉では、天明年間に亡くなった人物は確認できませんでしたが、天保の飢饉の期間には、天保7(1836)年に、権大僧都秀長、権大僧都秀光と、法印名をもつ先祖が相次いで亡くなっていたのです。『宮城縣史』によると、天保7年には「冷涼大雨 凶作」による被害があったそうです。
この二人の死後、藤原茂秀なる人物が跡を継ぎ、文政2(1862)年に没していますが、これまでの時代と比べて、天保年間から慶応年間までの墓石が圧倒的に少ない、というか、天保7年に没した2人と藤原茂秀以外には、慶応元(1865)年に没した4歳の久左という子どもの墓しかないのです。これはいったいどういうことなのか…。
この時、祖父から聞いていたことを思い出しました。祖父から、「飢饉で親族皆尽く死に、家系が絶えかけたことがあったが、修行に出ていた遠い血筋の人が跡を継いで今日まで続いている」と聞いたことがあり、このことか!と鳥肌が立ちました。
まさに、「絶えかけていた」のです。
系図作成という作業を通じて、実際に先祖が直面したであろう苦難と口伝が一致した瞬間でした。
今の自分がいるのは、これまで数々の苦難を乗り越えてきた先祖がいたからだということを改めて感じさせてくれる出来事でした。
こういうことがあるのも、先祖探しの醍醐味なのかなと思います。
この作業で整理した系図についてはまた改めて書きます。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
来歴不明の役行者像
本家には役行者像が伝来しています。
来歴等詳しいことは不明ですが、室町末期頃に作られ、松の寄木ー造りです。
口伝では、山伏として諸国を修行して巡っていた先祖が背負っていたものだと伝わっています。
江戸時代の初め頃、幕藩体制の成立により山伏はだんだんと各地に定住し、修験院を開いていったと言われています。(小野寺正人「陸前の修験道」より)
郷土史を読んでいても、中には南北朝時代や室町時代中頃に開山した来歴を持つ修験院がありますが、一般的には江戸時代初期が多いという印象でした。
定住して修験院開山の後は記録が残っていることが多いですが、それ以前になるとなかなか手掛かりがつかめなくなるため、その先をどう辿っていくか、もしくはその系統は一旦区切りをつけ、別系統の先祖探しに移行するかという選択になるのかなと思います。
話を戻しますが、この役行者像は、先祖の1人が江戸時代末期に京都の聖護院門跡に修行にでていたため、その際に入手したという可能性もあるのではないかと考えました。
この聖護院門跡の話は前回記事にしたので、興味のある方はそちらも併せてお読みください。
しかし、その際に入手したのであれば、聖護院に修行に行き、そこで入手したという口伝くらい伝わっていてもおかしくなさそうなのに…という疑問がわきます。
そのため、やはり修験院を開山し、定着する頃に入手したものなのだろうということにします(ここは想像するしかない…)。
それにしても、来歴不明の遺物は扱いが難しいなあとしみじみ感じました。
古文書や口伝等の「いわれ」があればまだしも、そうしたものが無い場合、その遺物がいつ持ち込まれたかに注意しなければ認識を見誤ると思いました。
とはいえ、来歴不明の場合でも、謎が深まって想像力を掻き立てられ、遠いご先祖様に思いを馳せることができるのには違いないので、それはそれで良いかなと思ったり。
今回はここまでです。最後まで読んでいただきありがとうございました。
先祖の足跡を訪ね、聖護院門跡へ
本家の墓碑に、「江戸末期15世藤原賢樹枝京都葛城山へ入峰修行」と彫られ、その際に師より現在の姓を授かり、名乗ったと書かれていました。
この「京都葛城山」がどこなのかというと、奈良県にある葛城山を指します。そして、「京都」というのは京都市左京区聖護院町にある本山派修験道総本山聖護院門跡のことだそうです。
聖護院といえば八つ橋や大根を思い浮かべる方もいるかと思います、あの聖護院です。
葛城山は、修験道の開祖役小角も修行したという修験道の聖地です。聖護院の本山派山伏は、この葛城山で修業したそうです。
当家は羽黒派修験だったのになぜ葛城山に入峰しているのだろうか。
そんな疑問を抱いたまま、聖護院に行ってみることにしました。
今から2年ほど前の話です。
聖護院では展示ガイドの方に案内していただきましたが、なかなか展示内容も充実しており、仏像も素敵で結構楽しめました。
帰り際に、ガイドの方に先祖が聖護院で修業していたかもしれないと伝えたところ、寺務所の方を読んでくださり寺務所に通されました。
寺務所では、江戸末期に行われた宮様の葛城山入峰修行の際に参加した修験者を書き記した文書を見せていただきました。
残念ながら、そこに名前はありませんでしたが、ここまでしてくださるとは思いもせず感激でした。
帰宅後、なぜ羽黒派修験なのに本山派修験の修行に参加したのかという疑問を考えてみました。
少々古い研究になりますが、小野寺正人さんの「陸前の修験道」(『宮城の研究 7』清文堂、1983)によると、仙台藩内では、本山派と羽黒派がしのぎを削っていたようで、仙台藩最大の修験である本山派修験大先達良覚院が、羽黒派を支配下に置いていたようです。
その論文の中で引用されていた、良覚院配下の修験院を記した『領内寺院録』(文政8(1825)年)という史料に、疑問の答えになりそうな記載を発見。
史料中に、当家の隣村にあり、しばしば婚姻関係を結んでいたという本山派修験院の名があり、その修験院は聖護院で拝見させていただいた文書にも名があったのです。
そして、葛城山に入峰した15世藤原賢樹枝は、その修験院からの養子だったようなのです。少々できすぎだと思いましたが、古文書等から確認できました。
疑問の答えとしては、
15世藤原賢樹枝は羽黒派修験の家を継いだが、実家である本山派修験院が聖護院の葛城山入峰に参加する際、共に葛城山に入峰した(理由については不詳)。そこで師より姓を授かり、以後はその姓を名乗った。
ということかと推測してみました。
仙台藩内で良覚院配下の本山派と羽黒派修験の間で婚姻関係が結ばれていたと思われることや江戸時代の仙台藩内の羽黒派修験については、今後の郷土史での研究課題にしていきたいと思います。
なお、これまでの調査内容をもとに、系図に家族関係を位置付ける作業をしています。
位置付け作業が終了次第、記事に書いてみたいと思います。
今回はここまでです。最後まで読んでいただきありがとうございました。