先祖をたずねて

当家の家系図調査の記録を綴っていきます。当家は明治維新まで修験道の家系でしたが、家系図が残されておらず、詳細が不明なため、系図調査をして家系図を作成しようと思い立ちブログをはじめました。調査手法や調査結果などを発信していこうと思います。

無記銘墓の主は誰なのか

『旧墓地調査報告書』にあった無記銘の墓石。

これが何なのか考えてみました。

 

関根達人さん(弘前大学教授)の『墓石が語る江戸時代 大名・庶民の墓事情』(吉川弘文館、2018)によると、「銘文が刻まれていないものには、本来墨で戒名や没年月日が書かれていた可能性があろう」とあり、『旧墓地調査報告書』にある無記名の墓石には元々墨で戒名や没年が書かれていたと推測できます。

 

この本では、戦国時代の墓石でそうした事例があると説明されていますが、江戸初期の人物の墓石でも、経済的な事情により、墨書した事例はあったのではないかと考えます。

 

そこで、『安永風土記』と『旧墓地調査報告書』を照らし、江戸時代初期の人物ではないかと考えたのです。

 

『安永風土記』には、慶安4(1651)年に没した人物として、良鏡院寶光鏡永なる人物の名がありました。

しかし、『旧墓地調査報告書』にはその名はなく、最も古いのは延宝7(1679)年に没した権大僧都鏡慶という人物です。

 

そのため、この無記銘墓の主は、良鏡院寶光鏡永なのではないかと思ったのです。

 

これについては当時その地域の墓石事情や葬送の歴史等、根拠となりそうな事柄を探していかないといけません。

今後の課題です。

墓地調査報告書を読む②法印戒名

前回の続きです。

 

見慣れない文字の正体が上頭文字だったとわかったのも束の間、八之允と覚左ェ門が存命だった時期に、修験者であった先祖も存命していたことが判明しました。

 

さて、1700年代の当主は誰だったのか、謎が深まったところで前回は終わりました。

 

今回は法印戒名についてです。

まず、『旧墓地調査報告書』に記載された法印戒名を全て抽出してみます。

 

権大僧都鏡慶(延宝7(1679)年5月6日)

権大僧都金剛位(享保7(1722)年11月11日)

③嵜峯権大僧都法永(享保16(1731)年12月21日)

権大僧都秀栄金剛(宝暦8(1758)年9月14日)

⑤秀長法印金剛位(宝暦10(1760)年10月20日 行年76)

権大僧都秀長法印(寛政9(1797)年7月12日 行年56)

権大僧都秀長(天保7(1836)11月21日)

権大僧都秀光(天保7(1836)12月17日)

 

『旧墓地調査報告書』には、総勢8名の法印名がありました。「秀長」が3人もいます。

 

法印は山伏のことです。「権大僧都」という戒名は、羽黒派修験道では、秋の峯入という修行に9回以上参加した山伏のみが名乗れる称号でした。

 

ちなみに、現在の秋の峯入は1週間程でしたが、当時は半年ほど行っていたそうです。時代が下るにつれ、期間は短くなっていくとのこと。

 

それにしても今と違う環境の中、半年間もお山で修行を積むというのは全く想像できません…。

 

さて、話を戻します。ここで、八之允と覚左ェ門の存命期間と照らし合わせることにしました。

 

1684 秀長法印金剛位 誕生

1707 八之允 誕生

1715 覚左ェ門 誕生

1722 権大僧都金剛位 死去

1731 権大僧都法永 死去

1741 権大僧都秀長法印 誕生

1754 八之允 死去

1758 権大僧都秀栄 死去

1760 秀長法印金剛位 死去

1771 覚左ェ門 死去

1797 権大僧都秀長法印 死去

 

ざっと並べるとこんな感じです。

生年と没年から推測しようと試みましたが、同時期と思われる人物が複数人おり、八之允と覚左ェ門の位置づけができません。

せめて没年がわかれば…

 

と、ここで、郷土史に収録されていた「安永風土記」なる史料の出現により、袋小路に入っていきます。

 

何にも解決せず複雑さを増していますが、

次回に続きます(全く進まずすみません(泣))

墓地調査報告書を読む①上頭文字編

以前、系図調査をしているという話を祖父にしたところ、「旧墓地調査報告書」なる古びた冊子を出してきてくれました。

 

どうやら、平成4年に地元の郷土史家の方に依頼し、本家の墓石の調査をしてもらったそうです。

私が生まれる前にそんなに面白そうなことがあったとは…。

 

今回はその報告書に記載された戒名で気になった部分についてです。報告書を読んでいて、次のような戒名が気になりました。

 

① □皈真蓮葉妙休信女(享保11(1726)年5月29日)

② 新早世妙安善男(延享4(1747)年9月6日 善之助)

③ 新皈真晩光□□霊位(宝暦4(1754)年2月7日 八之允 行年47)

④ 新皈西一蓮成陽善男(明和8(1771)年正月19日 覚左ェ門 行年56)

⑤ □皈西秋月妙法大尼(寛政2(1790)年7月28日)

 

道号の前に、なにやら見慣れぬ文字があり調べてみました。なお、皈は帰の異体字です。

 

原勝文『戒名よもやま話』(国書刊行会、1990)によると、これらは上頭文字というようです。

 

上頭文字とは、「新しき死者」を意味し、一般的には「新帰元」「新帰真」「新物故」「新帰去」「新還本」「新順法」、子供の場合は「新早世」と書かれるとのこと。

 

④と⑤は載っていませんでした。

「新皈西」は墓碑の読み間違いの可能性もありますが、形式的に上頭文字なのだと思います。

 

②は位号が「善男」だったので、てっきり成人男性かと思ったのですが、「新早世」は子どもに書かれるとのことで、善男というのが子どもに用いられることもあるのかどうかもっと勉強しないとと思いました。

 

ところで、この上頭文字ですが、『戒名よもやま話』によると、「位牌に記す。初七日がすぎると上頭文字は削られる。」とありましたが、なぜか削られていませんでした。削る余裕がなかったのか…?

 

また、③と④は行年と俗名らしきものが彫られていたため、年齢からして当主だとも思ったのですが、③の八之允と④の覚左ェ門は年の差8歳で兄弟の可能性もあります。

八之允が没し、弟の覚左ェ門が跡を継いだとも考えましたが、もうひとつ疑問がでてきました。

それは、次の人物たちの存在です。

 

嵜峯権大僧都法永(享保16(1731)年12月21日)

権大僧都秀栄金剛(宝暦8(1758)年9月14日)

秀長法印金剛位(宝暦10(1760)年10月20日 行年76)

権大僧都秀長法印(寛政9(1797)年7月12日 行年56)

 

全て修験者(山伏)の墓碑銘です。当家は修験道の家でした。つまり、当主は山伏なのでは…?

なんだか混乱してきました。

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

今までの調査で判明したことと今後の課題

先祖調査をはじめて今年で6年目になります。

今現在で判明していること及び今後の課題を整理してみました。

 

これまでの調査については下記の手法を用いました。

 

①祖父からの聞き取り

②本家の現当主からの聞き取り

③墓石(本家)

郷土史

 

我が家の場合は、①祖父が長男だったことから曽祖父や高祖父から口伝を聞いていた、②本家の現当主が祖父の弟にあたるため、聞き取り及び墓石調査が容易だった、など、好条件が揃っていたのが幸いでした。

 

まとめると以下のようになります。

 

判明したこと

・明治時代までは羽黒派の修験道の家で、「〇〇山△△院」と院号を有していた。

廃仏毀釈により、修験道が禁止されたため、神職になった。

修験道になる前は僧侶だったと伝わる。

・先祖が中心となり建立した石碑が多く残されている。

・平泉の奥州藤原氏源頼朝に滅ぼされた後、藤原氏の一族が当地に落ち延び、その末裔と言われる。

・江戸時代には「藤原」の姓を持っていた(墓石にも彫られている)。

室町時代中期から後期の作と伝わる役行者像(木造)があり、京都周辺でつくられたとされている。

・通字として、当主には「秀」の字が多く用いられている。

郷土史に収録された古文書から、江戸時代初頭から中頃までの当主が判明。

 

今後の課題(不明点)

・一族の墓地に室町時代の板碑(僧の名前が彫られている)がある。

・羽黒派修験だったが、なぜか先祖が聖護院(本山派)で修業し、現在の姓を授かってきた。

・墓石に菊の紋が入っている(家の家紋は九枚笹)。

郷土史に収録された古文書と墓誌に記された当主の名前・時代が一致しない箇所がある。

・他修験院との関わりを伺わせる戒名が彫られた墓石がある。

 

ということが挙げられました。

 

下から二番目の記述の不一致がでてきたことで頭が混乱しています…

 謎がさらなる謎を呼ぶ…

先祖探しは奥が深いです。

 

今後は具体的項目を整理し、まとめていこうと思います。