系図と口伝が結びついた瞬間
旧墓地調査報告書や郷土史から判明した先祖を整理し、系図に落とし込む作業をしていました。
仕事が忙しくなったりして、時間が取れず、予定より時間がかかってしまいましたが、昨日ようやく終わりしました。
その作業中の出来事で、先祖探しの醍醐味(と私が思っている)を味わった瞬間がありました。
系図に先祖を落とし込んでいく中で、ある時期に集中して先祖が亡くなっています。
「もしや」と思い『宮城縣史』で調べてみると、集中して亡くなっている時期と飢饉が起こった時期が見事に合致したのです。
仙台藩では、宝暦・天明・天保年間に三大飢饉と称される大飢饉が起こっています。
宝暦の飢饉…宝暦4(1754)年から宝暦7(1757)年にかけて東北地方を襲った大飢饉。現在の岩手・宮城両県にわたる範囲で約5万ないし6万人の餓死犠牲者が出たとされる。
天明の飢饉…天明2(1782)年から天明8(1788)年にかけて発生した飢饉。江戸四大飢饉の一つで、近世日本最大の飢饉とされる。
天保の飢饉…天保4(1833)年に始まり、天保6(1835)年から同8(1837)年にかけて最大規模化した飢饉。天保10(1839)年まで続いた。
宝暦の飢饉が始まった宝暦4年に没した先祖が1人、飢饉の期間には含まれませんが、宝暦年間には大人と子どもあわせて4人が亡くなっていました。飢饉で亡くなった人も含め、計5人が宝暦年中に亡くなっています。
また、上記3つの飢饉には含まれませんが、安永3(1774)年、安永7(1778)年にも、冷涼冷雨・気候不順による被害がでており(『宮城縣史』より)、その期間にも大人と子ども4人が亡くなっていました。
この宝暦及び安永年間で、およそ10人が亡くなっています。系図に落とし込んだところ、一人を除いてことごとくこの時期に亡くなっていました…。
天明の飢饉では、天明年間に亡くなった人物は確認できませんでしたが、天保の飢饉の期間には、天保7(1836)年に、権大僧都秀長、権大僧都秀光と、法印名をもつ先祖が相次いで亡くなっていたのです。『宮城縣史』によると、天保7年には「冷涼大雨 凶作」による被害があったそうです。
この二人の死後、藤原茂秀なる人物が跡を継ぎ、文政2(1862)年に没していますが、これまでの時代と比べて、天保年間から慶応年間までの墓石が圧倒的に少ない、というか、天保7年に没した2人と藤原茂秀以外には、慶応元(1865)年に没した4歳の久左という子どもの墓しかないのです。これはいったいどういうことなのか…。
この時、祖父から聞いていたことを思い出しました。祖父から、「飢饉で親族皆尽く死に、家系が絶えかけたことがあったが、修行に出ていた遠い血筋の人が跡を継いで今日まで続いている」と聞いたことがあり、このことか!と鳥肌が立ちました。
まさに、「絶えかけていた」のです。
系図作成という作業を通じて、実際に先祖が直面したであろう苦難と口伝が一致した瞬間でした。
今の自分がいるのは、これまで数々の苦難を乗り越えてきた先祖がいたからだということを改めて感じさせてくれる出来事でした。
こういうことがあるのも、先祖探しの醍醐味なのかなと思います。
この作業で整理した系図についてはまた改めて書きます。
最後まで読んでいただきありがとうございました。