法印神楽を始めた先祖のこと【後編】
前回の投稿からだいぶ空いてしまいました。
【前編】では、法印神楽の概要と江戸期の修験院について触れました。
今回の【後編】では、先祖が法印神楽を始めた理由について考察します
※史料が残っていないため、推測の域を出ませんがお許しください
旧墓地調査報告書の記載から
先祖が法印神楽を始めたのは宝暦年間(1751~1763)のことであると前編で記しました。
それを踏まえながら、改めて「旧墓地調査報告書」を見直したところ、宝暦年間に亡くなった先祖が複数いることを発見。今までは法印戒名に注意を払っていて見落としていました。改めて数を数えたところ、5人いました。以下早い順に戒名を並べてみます。()内は没年です。
未陽童女(宝暦元年正月2日)
晩光□□霊位(宝暦4年、俗名八之允)
権大僧都秀栄金剛(宝暦8年9月14日)
善男童子(宝暦9年7月22日)
秀長法印金剛位(宝暦10年10月20日)
ちなみに、「旧墓地調査報告書」は、本家の墓地を移転する際に、全ての墓石は移せないが、せめて記録だけはとっておこうと地元の郷土史家の方に依頼して調査してもらった際の報告書です。私が生まれる8年前のことでした。立ち会えなかったのは悔やまれます(どうしようもないことですが笑)
話を戻します。宝暦元年から9年の間に5人が亡くなっています。死因として、「宝暦の飢饉」が関係あるのではないかと考えました。
仙台藩と宝暦の飢饉
仙台藩領では、宝暦・天明・天保の大飢饉を3大飢饉と称するほど被害が多く、特に天明の飢饉では、20万人以上の死者を出したと推定されています。(『仙台藩と飢饉』)
宝暦の飢饉については、宝暦4(1754)年から宝暦7(1757)年にかけて、大きな被害をもたらしたとされ、岩手県と宮城県で、5〜6万人の死者を出したといいます。
仙台城下以外の地方における被害がどれくらいだったかはまだ調べられていないので、今後の課題としたいと思います。
法印神楽を始めた先祖
当家において、法印神楽を演じ始めたのは、宝暦年間だと伝わっています。
この時期の当主は、秀栄(宝暦8年没)あるいは秀長(宝暦10年没)です。両人は宝暦年間に死亡していますが、宝暦の飢饉が猛威をふるったのは宝暦4〜7年なので、両人は飢饉後に亡くなったことになります。
そのため、法印神楽を始めた先祖は、宝暦の飢饉の早期終結を願って、あるいは宝暦の飢饉によって亡くなった人々の鎮魂のために演じ始めたのではないかと考えました。
史料が残されていないので、推測の域を出ないのが残念です。
余談になりますが、天明の飢饉の際には、当家で死者は出ていませんが、宝暦の飢饉と天保の飢饉の際には、飢饉関連で亡くなったのではと思われる先祖がちらほらいます。
祖父からも、「飢饉で家系が絶えかけたことがあったが、修行に出ていた遠い血筋の人が跡を継いで今日まで続いている」と聞いたことがあります。
実際、宝暦に法印2名(秀栄、秀長)が亡くなった後、次にでてくる秀長法印という人物が、古文書に「龍性院延寿秀長」と名があり、他の修験院(延寿院)の名を冠しているため、延寿院からの養子ではないかと推測できます。
延寿院と龍性院は縁戚関係を結び代々交流があったと言われています。
他にも絶えかけている時期がありますが、それはまた別の機会に触れます。
今回はここまでです。
最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました。