先祖をたずねて

当家の家系図調査の記録を綴っていきます。当家は明治維新まで修験道の家系でしたが、家系図が残されておらず、詳細が不明なため、系図調査をして家系図を作成しようと思い立ちブログをはじめました。調査手法や調査結果などを発信していこうと思います。

江戸時代以前の先祖について考える

こんばんは。

最近先祖探しから離れていましたが、先日まとまった時間がとれたため、区切りの良いところまで進めようと思い、家系図を整理しました。今回は、江戸初期の先祖と旧墓地内にある室町期の板碑についてです。

 

今私が追跡しているのは、父方の先祖で、その先祖は江戸時代に羽黒派修験道の法印(山伏)をしていました。

山伏は、江戸時代までは諸国を渡り歩くなどしていたようですが、江戸時代に入ると各村々に定着し、村の神社を管理したり、お寺とともに村の祭祀を取り仕切っていました。こうした山伏は、妻子を持つ、妻帯修験であり、里修験あるいは里山伏と言われます。当家の先祖もこの里修験でした。

 

『宮城縣史 26』には、「修験院書出」という文書が収録されており、そこに先祖が提出した文書が収録されています。

「修験院書出」というのは、各村にある神社や寺院、修験院の情報を書いた文書です。

そこには修験院の来歴が以下のように記されていました。

當院者良鏡院宝光鏡永開山ニ御座候処右年月相知不申候 但慶安四年十一月十一日死去仕候処右年号□當安永五年迄百五拾九年ニ罷成候事

これによると、「開山(修験院の初代)は良鏡院宝光鏡永という人物で、開山年月は不詳。しかし、鏡永が死去したのは慶安4(1651)年で、現在(安永5(1776)年)まで、159年になる。」ということです。

 

ただ、安永5年の159年前というと、元和3(1617)年になってしまい、鏡永の没年と一致しません。これはどういう意味なのか…、誤読か誤記か、解読されてはいますが、一度原本を見てみたいものです。

このように、当家では江戸初期の先祖は名前と没年が文書に残るのみで、墓石もありません(鏡永のものと推定される無記名の墓石はあります、下の記事で推測しています)。

 

tanukikanda.hatenablog.jp

 

では、鏡永以前の先祖はというと、全く不明で、わずかに口伝として「奥州藤原氏滅亡時に、藤原氏の一族が落ち延びてきたその末裔」と伝わる程度です。藤原を名乗っていたことは、古い墓石に「藤原」と刻まれていることから確認できます。

 

他に、先祖とどういう関係にあるのかはわかりませんが、旧墓地内に室町期のものと推定される板碑があり、「道林禅門」と彫られているそうです。

 

ちなみに、付近の板碑を郷土史で確認したところ、「道○禅門」(〇にはいろいろな文字が入る)という戒名が彫られたものが多数確認できました。

また、口伝では他に、「先祖は最初は僧侶だったが、のちに山伏になった」とも伝わっており、それは旧墓地内にこの板碑があったからなのだろうと思います。

 

現状、史料が全くなく、根拠が口伝のみという状態。これ以上遡るのは現時点では不可能に思いますので、ここは口伝を信じて(子孫が信じてあげなくて誰が信じるのか)、江戸時代以前の先祖を想像することにします。

 

本家のある地域は、北上川流域にあり、安倍氏奥州藤原氏にまつわる伝説が残るなど、古くから拓けていた土地で、周囲は山や湿地帯が多かったようです。

こうした地理的な状況と口伝から、

奥州藤原氏滅亡に伴い、その一族?が当地に落ち延び、出家して僧侶となった。その後、時代が下ると修験道の山伏となり、修験院を開山した。

というざっくりした推測をしてみました。おそらくこれ以上は困難…。

 

今後できるアプローチとしては、当地方の室町期の寺院について調べてみたり、近隣の村にある修験院を調べてみることくらいでしょうか。

 

以上、ざっくりと江戸時代以前の先祖に思いを馳せてみました。

私が現在名乗っている苗字の先祖は大方調べつくした感じがあるので、今後は①父方祖母、②父方曾祖母、③父方曾曾祖母の家系にアプローチしてみようと思います(もちろん現在追跡している先祖についても継続します)。

今回はここまでになります。最後まで読んでいただきありがとうございました。