先祖をたずねて

当家の家系図調査の記録を綴っていきます。当家は明治維新まで修験道の家系でしたが、家系図が残されておらず、詳細が不明なため、系図調査をして家系図を作成しようと思い立ちブログをはじめました。調査手法や調査結果などを発信していこうと思います。

今までの調査で判明したことと今後の課題

先祖調査をはじめて今年で6年目になります。

今現在で判明していること及び今後の課題を整理してみました。

 

これまでの調査については下記の手法を用いました。

 

①祖父からの聞き取り

②本家の現当主からの聞き取り

③墓石(本家)

郷土史

 

我が家の場合は、①祖父が長男だったことから曽祖父や高祖父から口伝を聞いていた、②本家の現当主が祖父の弟にあたるため、聞き取り及び墓石調査が容易だった、など、好条件が揃っていたのが幸いでした。

 

まとめると以下のようになります。

 

判明したこと

・明治時代までは羽黒派の修験道の家で、「〇〇山△△院」と院号を有していた。

廃仏毀釈により、修験道が禁止されたため、神職になった。

修験道になる前は僧侶だったと伝わる。

・先祖が中心となり建立した石碑が多く残されている。

・平泉の奥州藤原氏源頼朝に滅ぼされた後、藤原氏の一族が当地に落ち延び、その末裔と言われる。

・江戸時代には「藤原」の姓を持っていた(墓石にも彫られている)。

室町時代中期から後期の作と伝わる役行者像(木造)があり、京都周辺でつくられたとされている。

・通字として、当主には「秀」の字が多く用いられている。

郷土史に収録された古文書から、江戸時代初頭から中頃までの当主が判明。

 

今後の課題(不明点)

・一族の墓地に室町時代の板碑(僧の名前が彫られている)がある。

・羽黒派修験だったが、なぜか先祖が聖護院(本山派)で修業し、現在の姓を授かってきた。

・墓石に菊の紋が入っている(家の家紋は九枚笹)。

郷土史に収録された古文書と墓誌に記された当主の名前・時代が一致しない箇所がある。

・他修験院との関わりを伺わせる戒名が彫られた墓石がある。

 

ということが挙げられました。

 

下から二番目の記述の不一致がでてきたことで頭が混乱しています…

 謎がさらなる謎を呼ぶ…

先祖探しは奥が深いです。

 

今後は具体的項目を整理し、まとめていこうと思います。