先祖をたずねて

当家の家系図調査の記録を綴っていきます。当家は明治維新まで修験道の家系でしたが、家系図が残されておらず、詳細が不明なため、系図調査をして家系図を作成しようと思い立ちブログをはじめました。調査手法や調査結果などを発信していこうと思います。

先祖の足跡を訪ね、聖護院門跡へ

本家の墓碑に、「江戸末期15世藤原賢樹枝京都葛城山へ入峰修行」と彫られ、その際に師より現在の姓を授かり、名乗ったと書かれていました。

 

この「京都葛城山」がどこなのかというと、奈良県にある葛城山を指します。そして、「京都」というのは京都市左京区聖護院町にある本山派修験道総本山聖護院門跡のことだそうです。

聖護院といえば八つ橋や大根を思い浮かべる方もいるかと思います、あの聖護院です。

 

葛城山は、修験道の開祖役小角も修行したという修験道の聖地です。聖護院の本山派山伏は、この葛城山で修業したそうです。

 

当家は羽黒派修験だったのになぜ葛城山に入峰しているのだろうか。

そんな疑問を抱いたまま、聖護院に行ってみることにしました。

今から2年ほど前の話です。

 

聖護院では展示ガイドの方に案内していただきましたが、なかなか展示内容も充実しており、仏像も素敵で結構楽しめました。

帰り際に、ガイドの方に先祖が聖護院で修業していたかもしれないと伝えたところ、寺務所の方を読んでくださり寺務所に通されました。

寺務所では、江戸末期に行われた宮様の葛城山入峰修行の際に参加した修験者を書き記した文書を見せていただきました。

残念ながら、そこに名前はありませんでしたが、ここまでしてくださるとは思いもせず感激でした。

 

帰宅後、なぜ羽黒派修験なのに本山派修験の修行に参加したのかという疑問を考えてみました。

 

少々古い研究になりますが、小野寺正人さんの「陸前の修験道」(『宮城の研究 7』清文堂、1983)によると、仙台藩内では、本山派と羽黒派がしのぎを削っていたようで、仙台藩最大の修験である本山派修験大先達良覚院が、羽黒派を支配下に置いていたようです。

 

その論文の中で引用されていた、良覚院配下の修験院を記した『領内寺院録』(文政8(1825)年)という史料に、疑問の答えになりそうな記載を発見。

 

史料中に、当家の隣村にあり、しばしば婚姻関係を結んでいたという本山派修験院の名があり、その修験院は聖護院で拝見させていただいた文書にも名があったのです。

そして、葛城山に入峰した15世藤原賢樹枝は、その修験院からの養子だったようなのです。少々できすぎだと思いましたが、古文書等から確認できました。

 

疑問の答えとしては、

15世藤原賢樹枝は羽黒派修験の家を継いだが、実家である本山派修験院が聖護院の葛城山入峰に参加する際、共に葛城山に入峰した(理由については不詳)。そこで師より姓を授かり、以後はその姓を名乗った。

ということかと推測してみました。

 

仙台藩内で良覚院配下の本山派と羽黒派修験の間で婚姻関係が結ばれていたと思われることや江戸時代の仙台藩内の羽黒派修験については、今後の郷土史での研究課題にしていきたいと思います。

 

なお、これまでの調査内容をもとに、系図に家族関係を位置付ける作業をしています

位置付け作業が終了次第、記事に書いてみたいと思います。

 

今回はここまでです。最後まで読んでいただきありがとうございました。